土佐放浪記 坂垣退助公像

高知城には板垣退助公の銅像がありました。子供の頃、古いお札で100円札があり、そこには板垣退助公が使われていた気がします。
「板垣死すとも自由は死せず」という言葉を思い出します。

ウィキペディアによれば、

板垣退助公は、高知城下中島町(現 高知県高知市本町通2丁目)に生まれた。なお、乾家は武田信玄の重臣であった板垣信方を祖とした家柄である(退助の復姓については後述)。後藤象二郎とは竹馬の友である。坂本龍馬とは親戚にあたるが、退助は同じ土佐藩の中岡慎太郎のほうが気脈が通じたらしく交誼が良く知られている。しかし、龍馬の桂小五郎宛ての書簡には乾退助を紹介する記述があり、また退助も龍馬の脱藩の赦免に奔走するなど、面識があり互いに尊敬しあう関係であったようである。 上士と下士の身分が確立されていた土佐藩の中で谷干城や佐々木高行と同じく、下士に対し寛大だった。

明治維新後は自由民権運動の主導者として知られ、「庶民派」の政治家として国民から圧倒的な支持を受けていた。明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説して廻り、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢・相原尚褧に襲われ負傷した(岐阜事件)。その際、板垣は襲われた後に竹内綱に抱きかかえられつつ起き上がり、出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い 、これがやがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わることになった。

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